こんばんは。
エンパス男子の大北です。
沖縄にあるコミュニティ"Sango"に所属し、
安心の中で喜びを分かち合える、
そんな暮らしの場を仲間とともに育んでおります。
その中で、Sangoファーム中城という畑の園主をしており、
薬や肥料を使わず、水やりもせず、祈りと喜びで畑を営む日々。
Sangoは、
"霊的成長への実験"の場。
僕たちの営むあらゆることは、
"霊的成長への実験"なのでございます。
じゃあ、
「何をもって霊的成長とするのか?」
を見つめた時に、
僕はとってもお堅い考え方をしてしまうことがあるのです。
たとえばこちら。
僕にとっては、
「発達障害を理解していくことが、霊的成長への実験」
であるのでございますが、
これはあくまでも、
霊的成長の一側面に過ぎないのです。
しかし、
僕は0か100かで考える障害的な気質があるゆえに、
「自分の考え方が正しい」と思い込んでしまい、
「発達障害を理解していくことだけが、霊的成長への実験」
であると決めつけてしまっていた最近がありました笑
ゆえに、
その考え方を人に押し付けようとしてしまっていたのです。
その奥には、
「同じでないといけない。」
「障害を差別されるのが怖い。」
という自分の中での差別意識・恐れがあったのです。
人は怖さゆえに、
同じ言葉を求めてしまう。
自分と同じ考え方でないと、
相手を受け入れられないことがある。
でも同じ考え方でなかったとしても、
実は同じ場所を目指していることは、
おおいにあるのです。
「霊的成長」一つとっても、
それはただの言葉にすぎない。
ある人にとっては、
魂かもしれないし、スピリットかもしれない。
ソウルとも言えるし、愛であるとも言えるし、
意識でもあり、精神でもある。
霊的成長への道も一つではない。
遺伝子や易経から読み解く人もいれば、
ヨガをする人もいれば、
カタカムナから理解する人もいれば、
宗教から至る人もいる。
Sangoの"生き方の道"には、
こんな言葉があります。
世界にある主要な宗教を、それぞれ『裡なるもの』につながる多くの『道』の一つとして認め、特定の教義は持たず、多くの人を受け入れ、送り出す。
どんな道であったとしても、
それは裡(うち)なるものにつながる道。
だからこそ「特定の教義」は持たないのが、
Sangoの道。
霊的成長にも、
明確な定義はないのです。
本来は言葉にすることすらできない光。
それを解釈している言葉が多種多様にあるだけ。
言葉が違っていたとしても、
同じ光をみている。
あとはそれを、
信頼できるかどうかですね。
一つの言葉・一つの考えに囚われることなかれ。
その奥にある光をしっかり観じよう。
今日も気づきに感謝です。
まるっ。