こんばんは。
エンパス男子の大北です。
沖縄にあるコミュニティ"Sango"に所属し、
安心の中で喜びを分かち合える、
そんな暮らしの場を仲間とともに育んでおります。
その中で、Sangoファーム中城という畑の園主をしており、
薬や肥料を使わず、水やりもせず、祈りと喜びで畑を営む日々。
最近、
ある人から意見をいただいたことがあって、
その内容がとても筋の通ったものだったので、
反射的に、
「自分のやっていたことが間違ってました。改めてゆきますね。」
とお返事したのです。
がしかし、
返信した瞬間から心がざわつき始め、
なんだか妙に落ち着かない。
「自分を改めるいい機会をもらったはずなのに、
なぜこんなにざわつくんだろう?」
自分を内省しながら、
仲間に薦めてもらった本を読んでいたら、
その答えが見つかりました。
(とても興味深い本です。)
肉体が酸素を必要としているように、
心にも承認という酸素が必要。
「僕も正しい。」
という酸素を自分に供給させてあげることができなかったことで、
僕の心は酸欠になりかけたのです。
誰かに意見をもらった時、
相手の本意に関わらず、
相手の意見を"指摘"と捉えてしまう気質が僕にはあります。
(相手はただ意見してるだけの場合がほとんど)
指摘とは僕にとって、
「相手の間違いを正すこと。」
ゆえに僕は、
「僕は間違ってたんだ。」
と受けとり、自分を正そうとする。
これは幼い頃から育んできた癖。
”いい子”でいなきゃという思いから、
自分を正しく在らそうとしてきました。
30年以上積み重ねてきた訓練の結果はダテじゃない。
誰かに意見を伝えられると、
条件反射で
「僕は間違っていたんだ。」モードに入ってしまうのです。
自ら自分を酸欠状態に持っていくのが、
長年の癖。
そんな僕に必要な言葉は、
「自分も正しい。」という言葉。
確かに、
相手の伝えてくれた意見は、
合理的でより成果に向かいやすい考え方。
相手もまた正しい。
でも同時に、
「僕がそうしていることには、そうすべき理由があった。」
のです。
自分をゆっくりと丁寧に見つめみたら、
その行動に至った経緯には、
自分なりの事情があった事に気づきました。
相手にとって正しくなかったとしても、
自分にとっては必要な行動だったのです。
でも僕はすぐに、
自分の必要性をダメにしてしまう癖がある。
それゆえに、
相手の意見が聞けば聞くほどに、
苦しくなってしまう僕がいた。
自分の気質にまた一つ気づくことができました。
「僕も正しい。」
「僕がした行動には自分なりの理由(≒気質)がある。」
まずは自分に対して、
そのように投げかけてあげること。
自分に共感すること。
自分の心に酸素を供給してあげること。
何よりも最優先すべきは、
自分に対する
"お(怒らない)・ひ(否定しない)・た(助ける)・し(支持する)"。
いつも伝えてもらっていることの意味を、
また深く理解することのできた日でした。
今日も気づきに感謝です。
まるっ!!
(それぞれが個性ある"正しい"ジャガイモたち笑)