こんばんは。
発達障がい人の大北です。
沖縄にあるコミュニティ"Sango"に所属し、
安心の中で喜びを分かち合える
暮らしの場を仲間とともに育んでおります。
本日も続けたよ、
話し合い。
"責任を背負い込みすぎる"ということについて、
考えさせられた今回でした。
議長や理事をさせていただいて、
場やコミュニティに対して、
責任がある立場になっている今。
「なんかうまいことまとめないといけない。」
「前に進ませないといけない。」
「1つにならないといけない。」
「わかってもらわないといけない。」
といった圧を、
自分に対しても周りに対しても、
かけてしまうところがありました。
自分がなんともなっていないのに、
周りをなんとかしなくちゃいけないと、
勝手に思い込む。
というかむしろ、
自分がなんとかなっていないから、
鏡として周りもなんとかなっていないように見えている。
というのが、
ふさわしい見方なのかもしれませぬ!!
不安から周りを、
コントロールしてしまっている。
じゃあ何が不安なのか??
を見つめてみたら。
「責任を果たせないことが不安。」
責任を果たせないって、
どういう状態??
Sangoが潰れてしまったり、
誰かが死んでしまったり。
"死"や"終わり"を迎えることを
あってはならないことにしている自分がいました。
うん、それは不自由だ!!
誰もここにいることを望まないのであれば、
Sangoが潰れたっていい。
生きたくないのなら、
死んだっていい。
そもそも、
周りから「存続しなさい」と言われて存続するのも、
「死んじゃダメだ。」「生きなさい」と言われて生きることも、
圧が強くて、苦しいし、しんどい。
逆に生きたくなくなるがな!!
それは個々人が自分で責任を取る話で、
僕が相手の責任までぶんどる必要はない。
わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれれば、それも仕方のないことだ
生きるも死ぬも、潰すも潰さないも、
それぞれの希望の問題だ。
死という制限すら超えて、
自由に今を生きていい。
だから、
僕が果たすべきは、
自分が自分を生きることだけ。
自分がなんとかなってないのに、
他人のことをどうこう言うことはできないね。
鏡だから。
あなたも私を見せてくれている。
だから、
相手に反応したならば、
「こいつ(自分)だからしゃーないな。」
という自分を許す実験実践です。
今日も気づきに感謝です。
まるっ!!