先日もお伝えした、
『蜜蜂と遠雷』。
僕の誕生日に、
ゆりさんと一緒に見にいった映画。
とても楽しみに見にいった映画だったにもかかわらず、
映画を観終わって、ボロボロ泣いて感動していたのは、ゆりさんだった。
『蜜蜂と遠雷』は、
クラシック音楽の映画だ。
そして僕は、
クラシックの素養が全くない。
何を受け取っていいのか、
観終わったあと、
とても混乱した。
一方のゆりさんは、
「音」の人。
ピアノをやっていたこともあり、
彼女の経験と、
ドンピシャの映画だった。
横で感動し、
たくさんのものを受け取っている彼女が、
僕は羨ましかった。
(観たいっていったのは僕なのに!!笑)
でも、
僕もこの映画から、
何かを受け取っているのではないか?
そんなことを感じ、
何度も何度も、
映画を反芻した。
視覚と聴覚を通じて、
受け取った膨大な「何か」。
その一つ一つに言葉を与えていった。
すると、
その「何か」は、
少しずつ輪郭をあらわし、
気づきに変わり、
僕の心に音を響かせた。
言葉は偉大だ。
この世界を形作り、定義する。
言葉があるから、
人は人と分かり合えるし、
物事を理解することができる。
でも一方で、
言葉は物事を形にしすぎてしまう。
あの人の喜びと、
僕の喜びは違うかもしれないのに、
同じものだと誤解してしまう。
そんなすれ違いも言葉から生まれる。
言葉に囚われてしまうと、
何でもかんでも定義にこだわり、頭で考え、
感情や体感は置き去りになってしまう。
大切なのは、
言葉の奥にあるもの。
その言葉に乗せて伝える想い・波動だ。
『蜜蜂と遠雷』、
その映画が伝える想いを、
ゆりさんは「音」で、
僕は「言葉」で受け取った。
どちらがいい悪いじゃない。
方法が違うだけで、
どちらも想いは受け取っているのだ。
同じ言葉を話すにしても、
誰が伝えるかで全然違う。
尊敬する沖縄のおばぁ、もこさんの言葉は、
なぜだか心に突き刺さり、
涙が出る。
嘘がないのだ。
喜びと愛がストレートなのだ。
僕たちは言葉を介して、
コミュニケーションとる生き物。
言葉を丁寧に伝えることはもちろん大切だ。
その表現一つで、
喜びも生まれれば誤解も生まれる。
これもまた日々精進。
でもそれ以上に大切なのは、
言の葉の奥に何があるか?だ。
どんな想いを感じて受け取るか。
どんな想いを込めて伝えるかだ。
僕たちが本当に通じ合いたいのは、
言葉ではなく、
その奥にある想いなのだ。
僕たちは、
自分という命を、その存在を、
受け入れ、表現し、
感じたいのだ。
どんな想いで生きるのか?
どんな想いを発するのか?
そんなことを深く感じた映画でした。
今日も気づきに感謝です。
まるっ!!
沖縄のおばぁ、もこさんは現在県外出張中!今回は北海道・宮城・千葉です。よければ是非!
こんな僕たちと一緒に学びあいませんか??
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