こんばんは。
文章を書く時、
アレヤコレヤと考えてしまう癖があります。
どうやったら伝わるだろうか?
どうしたら読んでもらえるだろうか?
そんなことを考え、
論理的に文章を構成してしまうのです。
するといつの間にか、
お膳立てばかり長くなってしまい、
書きたかった熱量、想いが薄れてしまう。
あれ?自分何してるんだっけ??
と書き終えた時に変な気持ちになることが、
たまにあるのです。
その度に自分の恐れを思い知らされます。
読んでもらいたい!
よく思われたい!!
アァーーーー!!!!
褒められたいんやーーーー!!!!
と無意識に思っている自分がいることに気付かされるのです。
(本日はいささかテンションがおかしいです。)
恐れは、
人の足を踏みとどまらせます。
頭で考え始めます。
そして思考は、
被害者意識に囚われて、
「文句言われんためには、褒められるためには、
こんな風にキチッと書かなあかんのやで。」
と僕に囁いてくるのです。
そして僕は、
自分の想いに蓋をしていってしまうのです。
そんな僕は、
また一方で誰かの言葉すらも、
自分の思考のフィルターでキャッチしようとするわけです。
だから、
表現や論理がとっても気になります。
ちょっとした言い間違いや、
論理的に筋が合わないことがあると、
引っかかって動けなくなるのです。
これもまた、
「相手の言うことは、
ちゃんと理解せなあかんのやで〜」
という自分の思考が邪魔をするわけです。
そして僕は、
相手の表現の文字面ばかりを受け取ってしまい、
その奥にある
言葉にならない波動・想いを
受け取り損ねてしまうわけです。
最近、
『遺伝子易経』という本を読んでおります。
自らの遺伝子に刻まれた、
64個の闇や才能が記された本です。
僕の遺伝子に強く刻まれている、
64番目の「想像」という才を読んだ時に、
ビビッときたのです。
「思考の枠を外れたところに、
想像が広がっていく。」
誰かの真似っこでもなく、
過去の自分の延長でもなく、
自分の思考を超えたところにある言葉。
言葉にならない衝動。
それが自分の中に、
確かにあるのを感じます。
そして、
相手の中にも必ずあるのです。
自分の枠を超えた言葉・想いを、
思考というフィルターなしで表現すること。受け取ること。
それが生命を感じることなのです。
生命を感じるためには、
やはり自分の恐れと向き合う必要がありますね。
恐れもまた、
自分の生命=エネルギーの一部。
恐れに囚われ、思考に走るのではなく、
恐れと対等に向き合い、
それを感じ切る。
そして、恐れを超えた先に、
宇宙の流れを信頼すれば、
絶対大丈夫。
という自己確信が生まれ、
悠然と命の喜びを感じることができるようになる。
そんなことを感じる今日です。
なんだかモヤモヤするこの気持ちを
盗んだバイクで走り出すように書いた今日は、
秋分の日。
節目の日。
過去の自分の枠を超えて、
新しい自分になる切り替えの日ですね。
皆様が、
喜びに向かう良きスタートを切れることを祈っております。
今日も気づきに感謝です。
まるっ!!